1200筆達成の手記 「3000万署名の取りくみ、わたしのやり方」1



「3000万署名」の取りくみ わたしのやり方
2019年5月3日  「憲法9条の会生駒」谷山清


「3000万署名を達成し、安倍9条改憲に終止符を」をモットーに2017年9月に発足した署名運動が、明くる年の2018年4月には1,350万に達し、8月には1,800万になりそうとの報道がありました。私たち「憲法9条を守る生駒共同センター」(以下「共同センター」)でも、毎月6、9、19日の3回、生駒駅前で市民に呼びかけ、精力的に続けてきたおかげで、2019年4月9日現在で4,224筆を集めることができました。これは、共同センターに所属する活動家の皆さんの働きによるものです。

 私は、自分の体調に照らしこの大切な活動に参加し続けることができず、仲間の皆さんに済まない思いでいっぱいです。そこで、自分はどうしたらこの運動に関わることができるかを考え、これまで交流のあった中で、この人に頼んだら…という方を見つけ、協力してもらう方法を思いつき、2017年12月から始めることにしました。 

 なぜこの様な方法を採ったか。もう10年も前だったでしょうか、「核兵器廃絶」の国際会議がアメリカで開かれたときに「核兵器全廃」の署名を代表が持っていくということで、この生駒でも平和委員会を中心に署名集めに取り組まれました。真鍋洋子さんが事務局長をしておられたときでした。私は生駒市民12万人の1%に当たる1,200人分を集めようと目標をたてて取り組み、これを達成しました。このときの経験を活かして、今度の「3,000万署名」も頑張ろう、と思ったのです。しかし、90歳を越した今、1,200筆は無理なのでせめて500筆を…と目標を低く設定して、取り組みを始めました。 

<その1> これまでの巡り会いを活かして  

 協力をお願いする手紙、署名用紙と私宛の返信用封筒(もちろん切手は貼って)を同封して、これはという人に送り働きかけました。 対象者は次の4通りです。
・私は40年間、小学校の教師をしていたので、多くの教え子に巡り会えました。今でも毎年、年賀状をくれる教え子180人ほどの中から、この子なら賛同してくれるだろうという55人。 
・元職場で一緒に働いた仲間の中で、この人はという10人。 
・「奈良作文の会」(1948年に発足し60年間続いている)で共に活動してきた人たち、また退職後19年間、郷土作文教育月刊紙「学びの園」に協力してくださった方々、合わせて16名。 
・私のクラスに来てくれた教育実習生で、その後もずっと交流が続いている3人。 

以上の対象者に働きかけた成果は、次の通りです。 
①教え子55人中48人が応じてくれ、269筆。 
②元職場の仲間12人中10人が応じてくれ、98筆。 
③「作文の会」と「学びの園」関係16人が応じてくれ、160筆。 
④教育実習生3人が応じてくれ、90筆。       

 合計617筆。            

<その2> 直接に足を運ぶ 

 直接足を運び、会って協力をお願いする方法です。次のような人たちに呼びかけました。 

・退職後、生駒滝寺テニスコートで行われている「生駒テニス愛好会」の仲間に入れてもらい、19年間一緒させてもらい、退会後も親しくさせてもらっている方数人。 
・2カ月に一度くらい訪ねる大阪鶴橋で朝鮮人参を扱っておられる「日和堂」のおばさん。 
・お世話になっている二つの病院の院長さん。 
・地域で親しくお付き合いしている方6人。 
・教え子の同窓会に招かれた折に、参加の子らに呼びかけ。 
・講演を頼まれ、役目を果たした時に。 
・親類4軒。 
・その他、色々な方。 
 この方法での取り組みの成果は次の通りです。  


1「生駒テニス愛好会」の方々、50筆。 
2「日和堂」のおばさん、135筆。 
3 院長さん、8筆。 
4 地域の方、35筆。 
5 教え子の同窓会、23筆。    
6 講演会で、62筆。 
7 親類、50筆。 
8 その他、167筆         
      合計530筆 

 以上、<その1>と<その2>を全て合わせて計1,147筆です(2019年4月9日現在)。 
 はじめに目標とした500筆の2倍以上に達し、我ながらよく集めることができ、何より、協力して下さった方々に心から感謝の念を表さねばと思います。 

<付記> 印象深かったこと 

 2017年12月から2019年4月までの1年5ヵ月にわたる取り組みの中で特に印象深かったことを付記しておきたく思います。 

(1)「日和堂」のおばさんのこと 
 なんといっても忘れられないのは「日和堂」のおばさんの135筆です。この方とは十数年来の付き合いで、2ヵ月に一度ほど朝鮮人参を買いに行き、世間話をします。「日和堂」は、おばさんのお祖父さんの代に韓国からやってきて、大阪の鶴橋で商売をされたのが始まりで、今のおばさんで3代目だそうです。世間話の中で私が韓国旅行(「平和の旅」)をし、見聞きしたことや、教員時代に小学校6年生に社会科の授業で「日韓併合」を教えたなどという話をすると、身を乗り出すようにしてよく聴いてくれ、政治の話もけっこう通じ、安倍批判や憲法を守る大切さについても考えを共有できる方です。20歳代の娘さんも、おられる日は話に加わってくれます。ある日、帰り際に「3000万署名に協力してほしい」と署名用紙数枚を渡そうとすると、「こんなのすぐに集まるから、もっとたくさん置いていき」とおっしゃるので、その時に持っていた15枚(75筆分)を全て渡しました。すると、それから一週間もしない内に、我が家に75筆の署名が届き、びっくりしました。  次に訪れた時、「どうしてこんなにたくさん、早く集まるの」と尋ねると、「この商店街の皆さんが“いいよ、いいよ”とすぐ応じてくれるし、娘の夫が北海道の人で、仲間がいっぱいいて電話をかけただけですぐに応じてくれるから、たくさん置いていき」と言ってくださるので、お言葉に甘えてさらに12枚(60筆分)を渡して帰りました。すると10日ほど経って、またもや60筆で満たされた署名用紙が我が家に届いたのです。北海道の住所の方がたくさん署名されていて、圧倒されるとともに、人脈のありがたさをつくづく感じました。 

(2)K君のこと 
 私は小学校の教師を40年間やってきましたが、その殆どと言っていい38年間、国立の附属小学校(はじめは師範学校の、ついで学芸大学、さらに教育大学と名前は変わりましたが)で勤め、多くの同僚と切磋琢磨してきました。退職してからも交流の続いている方が何人もいます。なかでもK君とは20も年の差がありながら特に親しい間柄で、「生駒9条の会」の主な催しにもよく参加してくれます。彼にこの署名をお願いしたところ、50筆を短い期間に届けてくれました。後で聞いたところでは、この時は奥様の病が重く、入院され看病にあたっていたのにも関わらず、この仕事をやり遂げてくれたとのことでした。それから少しして奥様が亡くなられたことを知り、なんと申し訳ないことをしたかと、後日、謝りました。 

(3)教え子、Mちゃんのこと 
 38年前、高学年で担任をしたMちゃんです。1982年、私たちの学校で初めて広島への修学旅行を実施しました。旅行から帰って6年生全員に記録を書かせ、学年文集を作りました。ここでMちゃんはこんな詩を書きました。 

〜エピローグ「平和」〜     この気持ちが、この感動が、核への憎しみ
                平和への祈りに変わった
「ふるさとの街 焼かれ
身よりの骨埋めし焼土に    この気持ちをどこへもっていけばいいのか 
今は白い花咲く            だれに言えばいいのか 
ああ許すまじ原爆を 
三度許すまじ原爆を          私には願うしかない 
われらの街に」        こんなちっぽけな私が一人ではとても無理だ 

涙が出るくらい感動         しかし、願うだけで本当に平和が 
したこの詩               くるのだろうか 

「天が真っ赤に燃えたとき    米田先生や、高橋館長さんにこたえること
わたしのからだはとかされた       が出来るのだろうか 
ヒロシマの叫びを 
   ともに世界の人よ」     何もできない ちっぽけな私だけど 

ふるえるぐらい心がゆれ      何かをしたい 
たこの詩              何かをしなければならない


私の心にこの詩が残っていたので、ふと思いつき、彼女への手紙に、「あのとき思った“何をしたい、何かをしなければならない”は署名という形で出来るのではないか、ぜひそうしてほしい」と書き添えて届けたのです。すると、なんと50筆を集めて送ってくれました。 
 彼女は現在、ピアニストとして活躍し、関西では一流です。各地でコンサートを行い、「歌の教室」も開いています。おそらく、この教室の人たちにも働きかけてくれたのでしょう。 (続く)